中部西子ども劇場「子どもの心が見えますか」

目次

1.はじめに

2.家庭の位置づけ

3.子どものこころの問題

4.しつけについて

5.まとめ

1. はじめに

 臨床心理士の堀と言います。今日は「子どもの心が見えますか」というタイトルで話をすることになっておりますが、「子どもの心が見えますか」とまともに質問されてしまうと、話をする当の私でさえ、なんだか自信がなくなってきますね。このタイトルは私がつけたわけではないことをお断りしておきたいのですが、私自身は「親だから子どもの心が見えなくてはいけない」とは思っておりません。親子であっても身はふたつ。理解しようとお互いに努力することが大切ではありますが、伝えようとしてしない相手の気持ちがわかるわけがないがないし、たとえ相手の気持ちがわかっているように思えてもそれは相手に確かめてみないと本当のところはわからないと思っています。

子どものこころの問題に関わっている立場からしますと、「親だから○○しなくてはいけない」と思う気持ちがかえって自然な親子関係を阻害しているような気もいたします。今日の話は、巷で「○○しなければいけない」と言われていることから離れて、本当のところで子どもと向き合う必要性について話が出来ればと考えています。

さて話を進める前に、初めは自己紹介です。どんな問題でもそうですが、どんな立場や経験があるのかによって、物事の捉え方は違ってきます。まず私がどんな立場で話をするのかを紹介させていただきたいと思います。

臨床心理士とは

「臨床心理士の堀です」と自己紹介しましたが、「臨床心理士」という職名をみなさんご存知でしょうか。臨床と言いますのは、医療現場で使われる言葉なんですけれども、他に「臨床検査技師」とかがありますね。臨床とはベッドサイドの意味で、つまりは患者さん相手、人間相手に使う心理学を臨床心理学、それを扱う者を臨床心理士と読んでおります。

いわゆる心理カウンセラーですが、私たちが心理カウンセラーとは言わずに臨床心理士という名称にこだわりますのは、一つ目は実際の仕事がカウンセリングだけに限らずいろいろな仕事をするから…でありますし、二つ目はちゃんと研修を受けた専門家であることを一般の方にわかっていただくためでもあります。カウンセラーは巷に数多く存在しておりますが、驚くことにまだ国家資格が出来ておりません。人の心や人生を預かる大切な仕事をしていながら、まだ国家資格はない。それではいけないということで、臨床心理士の学会では日本で一番大きな日本臨床心理学会が10年ほど前に資格を作りました。臨床心理士のうち一定の条件を満たして試験を通ったものに認定資格を与えられますので、「認定臨床心理士」と読んでおります。私も「認定臨床心理士」の資格はありますが、一般の方には資格のあるなしは関係ないので、いわゆる職業の名称である「臨床心理士」と自己紹介をさせていただいているわけですが。実を言いますと認定臨床心理士以外にいくつかの心理関連の資格がありますが、心理関連の資格では「臨床心理士」がもっとも信頼性の高い資格とみなされています。資格を取るための条件は厳しいですし(今は大学院卒業以上)、試験もあります。資格取得後も5年ごとに一定以上の訓練や研修を受けているのかどうかを問われます。そして条件に満たないと資格を更新できない仕組みになっています。現在この資格を持っている者が、全国で6000名ほどおります。心理カウンセラーにもいくつか資格があって、その資格がどのような意味を持っているか、という情報を知っておかれますと、自分や家族が必要になったときに心理カウンセラーを選ぶ上で役に立つかもしれません。

臨床心理士とはあまり聞きなれない職名ですが、最近は子どもの心の問題や、子どもに関わらずこころのケアについて関心が高くなっているので、マスコミで「臨床心理士」の言葉を見かけるようになりました。いじめによる自殺をきっかけに始まったスクールカウンセラー事業では、認定臨床心理士の資格があることが望ましいという条件がつきました。阪神淡路大震災では日本臨床心理士学会が電話での相談を受け付けて「こころのケア」を行いました。さらに、神戸連続児童殺傷事件から少年ナイフ事件など非行の問題の記事、さらにもっとも新しいところでは犯罪被害―交通事故で突然に身内をなくした家族の心のケア、サリン事件のこころのケア、レイプ被害の女性への心のケア―の記事にも臨床心理士の言葉が出てくるようになっています。

私の仕事

さて、私は昨年の
7月に自分のオフィスを持ったのですが、それまではずっと病院の中で、精神科や小児科で、臨床心理士の仕事をしておりました。特に開業する前の10年間は、「国立療養所長良病院」という子ども専門の病院に勤めておりました。そこには不登校を始めとする多くの子どもたちが相談に来ていましたので、他の臨床心理士たちよりも子どものこころの問題に随分たくさん関わらせていただいております。今は自分のオフィスを中心に仕事をしておりますので対象は子どもに限らなくなったわけですが、それでも、中学校のスクールカウンセラーとか、保健所での乳幼児のお母さんのための子どもすこやか相談とか、こうしたPTAの講演とか、いろいろな領域で子どものこころの問題に携わらせて戴いております。

私の援助の方法は、主には個別に話を聞きながら、その方の困っているところを共に考えて行くというものです。いわゆるカウンセリング、専門的には心理療法―サイコセラピーとか言いますが、サイコセラピーにもいろいろな立場があって、私は精神分析的な考え方に基づいて話を聞き援助をしております。問題が生じたところから解決されるまで援助しつづけますので、長いスパンで物事を見ることができます。また、何時間も、何十時間もじっくり時間を費やしてお話を伺いますので、こうした問題の生じた背景や事情について詳しく知ることが出来ます。そういう点では、長い時間の一時期でしか出会わない教師とはかなり物の見方が違ってきます。教師は担任をしている期間しか生徒を見れないし、背景にある気持ちにつきあってはいないので、たいていは表面的な行動しかわからない。だから多くの教師は、不登校に関してよくわからないとか、いったん学校を休み始めるともとに戻れないと悲観的に考える。その点は、私は長く関わることの出来る立場のおかげで、不登校に関して悲観的な考え方はしていないし、理由もプロセスも理解することができるわけです。

前置きが長くなりましたけど、今日の話は、臨床心理士として、そして個別の関わりをする立場から話をしていくことになりますので、よろしくお願いいたします。

2.家庭の位置付け

本題に入りましょう。最近になって「家庭教育」の言葉がテレビやマスコミにも出てくるようになり、その大切さが強調されるようになりました。「家庭の機能が低下した」などと書かれることもあるわけです。まずはそのことについて、私が考えていることから話をしたいと思います。

家庭教育なんて、それまでは婦人欄にしか出てこないような言葉でしたが、ある時から社会欄でも頻繁に取り上げられる言葉となりました。お気づきでしたか。

2年前の夏1997年7月に、日本中を震撼とさせた神戸連続児童殺傷事件がおきました。そして去年1998年1月には黒磯中学で女性教師がめった裂きにされるという事件と、その後の少年によるナイフ事件の頻発。今の子どもはどうなっているのだろうと大人は震え上がり、日本中でこころの教育のあり方、家庭のあり方について取り沙汰されるようになりました。あの頃だったのではないでしょうか。「家庭教育」という言葉が婦人欄から社会欄やテレビにもよく出てくるようになったのは。

ただ、私個人は「家庭教育」という言葉は昔からあまり好きではありません。一昔前に「良妻賢母」という言葉がありましたけど、家庭教育という言葉にも、なんだかあるべき姿を押し付けられるように印象があるからです。それに実際に学校などで行われている家庭教育学級も、どちらかといえば形が先行していて、母親の本音が語りにくい雰囲気があります。これでは本当の形でのネットワークは出来ません。逆に、こういう子ども劇場のネットワークは素敵だと思います。本年のところで子育てに必要な情報のやり取り、そして親どうしの支えあいをしていただきたいと思います。

マスコミでは家庭教育、家庭教育とうるさいくらいですが、私の考えとしては、今の子どもの問題を親の力量だけで何とかしようとするのはむつかしい時代になってきたと思っています。いくら子どもを非行化させたくないと考えても、家庭の一歩外にでれば、無尽蔵に子どもたちが欲しがるものが売られている、性の情報の氾濫はある、たばこの自販機がある、公園まで出ると覚醒剤でも売っていそうな集団がある。親が、するな、出るな、と言っても子どもは好奇心にあふれて外に出ていってしまいます。そんな社会にあって、社会は変わろうとしないくせに、まわりは親に子どもをしっかりと見張っていろと要求する。


オーストラリアとの比較

他の国の事情についてひきあいに出したいと思います。オーストラリア生まれで今は日本の男性と結婚して日本に住んでいらっしゃる方の話です。オーストラリアでは子どもが夜8時、9時に寝るのは当たり前なのだそうです。そんな環境で育ってきたオーストラリアの女性が日本に住んで、子どもを育てることになった。そしたらオーストラリアでは当たり前に出来るだろう事が日本ではできない。9時までに寝せようとしても、子どもは学校から戻ったらテレビが見たいし、宿題があります。ようやくそれらを終えてお風呂に入って寝せようとすると、今度は夫が仕事から戻ってくる。夫の食事の支度をする、子どもはお父さんが帰ってきたのでうれしくて寝ようとしない。寝せるまでにすごいエネルギーを使う、まるで戦いなのです。もちろん9時までになんて寝せられない。学校からは早く寝せるようにと求められるし、自分も早く寝せたいけど、夜10時、11時にどうしてもなってしまう。

その方が、子どもが早く寝られない最大の原因はテレビだとおっしゃっていました。テレビを見ていればどれだけでも時間を消費できる。これだけ見たら満足ということはない。見れば見るほど、また見たくなる。そして、子供が喜びそうな番組(ドラマ、映画)が夜遅くまでやっている。

オーストラリアでは、子供向けのテレビは8時か9時だかで終わり。9時以降は大人の時間とされていて、テレビもそれに合わせて大人が見るような番組しかしていないのだそうです。だから子どもが9時すぎにテレビを見たいとは言わない。まわりの友達もみんなそうなんです。9時になれば、どこの子どもも寝室に入ることが当たり前となっているから、親はそれほどの苦労なく寝させられるのです。

私はそれを聞いてうらやましいと思いました。そして、早く子どもを寝かせられないのは母親としての無能さのせいだと思っていたんだけど、そうでもなかった、この社会にいればみんな同じように形になってしまうのだと気がつきました。こうして考えてみると、夜早く寝せましょうだけのスローガンでは建設的な考えは出てこない。親が本当のところを話して、困っていることについてみんなで考えるのがいいんだと思います。テレビにしても、オーストラリアのように子どもが見られる時間が限られていたらどんなに楽だろうとは、皆さん思われませんか。

のネットワーク作り−本音が出せる仲間づくり

そんなむつかしい時代に私たちは子どもを育てている、家庭や親が悪いという話で終わるのではなくて、社会が変わってくれないから親の責任が増していると捉える方が正しいし前向きだと思います。自分の力だけでうまくいかなくても、自分を不必要に責めず、皆で困っていることを出し合ってより良い子どもの環境が作られると良いと思います。地域コミュニティーが本当のところで家庭の機能を補うようになるためには、コミュニティーが親や家庭に完全さを求めるのではなくて、限界があるからこそ助け合う必要があるのだという認識に立つ必要があります。そうすると家庭が困ったときにまわりに助けを求めることができる。自分の子どもが非行に走りそうなとき、そんなときにはもう親の言うことなんか聞かないわけです。親が必死になることも必要なことがあるのですが、自分が注意しても聞かないときには近所のおじさんおばさんがさりげなく見ていてくれる。そんな環境、コミュニティーが出来ることを私は望んでいます。そういう意味では、家庭が悪くなった、親が悪くなった、という論調はまわりに批判されることを恐れて親が孤立化するだけだと私は考えています

ついでに申し上げますが、最近のテレビ番組は節操がなさすぎます。特に腹が立つのは子どもを消費者として食い物にしようとしているところです。驚いたのは「オハスタ」。ご覧になったことがありますか。朝6時45分から7時30分までテレビ愛知でやっている番組です。ある時寝坊のはずの小学校に通う息子が、朝早く起こしてくれと言い出しました。テレビ目当てで、まあそれで早起きできればいいやと思っていたんですけど、番組を続けてみているうちに私は腹が立ってきました。あの番組は、あきらかに小学生をターゲットにしてマーケットを拡大していこうとしている。以前からロボット物や正義の味方の番組でおもちゃを売っていくという手法はありましたけど、オハスタはそんなレベルではない。欲求の制御がきかない幼稚園や小学校年齢の子どもを消費者にしてと商品を売ってもうけようとしている。最近のテレビのやり方は、あまりにも大人としての良識にかけると私は思いました。

さあ、そんな社会にあって家庭では何ができるのか。社会の問題だから家庭は何もしないでいいということはありませんので、私が親についてどんなことを考えているのかを次にお話したいと思います。

3.子どものこころの問題

親が子どものトラブルにデリケートになりすぎている

最近の心理相談で感じることは、子どもが起こす問題に対して親がデリケートになりすぎているということです。不登校についてマスコミで取り上げられるようになってからほぼ15年たっていると思いますが、どのお母さんも少しでも学校に行きたがらないと「不登校になるのではないか」と心配し始めます。一日でも学校に行きたくないと言って欠席したとしたら「不登校になった」と解釈して、マスコミの悪しき影響ですぐに「学校に無理に行かせてはならない」と考えて休ませてしまう親御さんまでみえます。数日しか休んでいないのにお母さんの方が不安になってしまって、子どもに理由も聞かずに、心理相談にみえるというケースも出てきております。

いじめについても同じです。いじめという言葉がマスコミで多く取り上げられるようになってから、子ども同士の他愛ないやりとりでも、すぐに「うちの子がいじめられている」と悲観したり大騒ぎしたりします。確かに、自分の子どもがいじめを受けているとわかったときに親の衝撃は計り知れないものがあります。なぜあんなに衝撃になるのかと思うくらいの衝撃が親を襲いますよね。私にも子どもがいますからわかりますが、自分の子どもが友達に電話をして、断れただけでなんだかうちの子どもは友達に嫌われているのではないかと心配になるものです。衝撃については理解できますが、「いじめ」という言葉が出来てから、余計に親が敏感になってしまっているのです。敏感になることが子どもの利益になるのなら良いのですが、敏感になることによってかえって十分にいじめにゆとりをもって対処できなくなっているのではないでしょうか。

確かに陰湿だと感じるようないじめも存在しないではありません。相談に来られた中学生の話を聞いていて、画鋲を椅子に置くとか、相手に怪我をさせるようないじめが平気でやれる時代になってきていることに、いやな気持ちになりました。私は一般の中学生の生活にも興味があるし、子ども時代に感じていることを大人になると忘れてしまうので、中学生日記というテレビ番組をチャンスがあれば見ることにしています。そこでもクラス全体であいさつをしないようないじめや、ある子がお弁当を食べていてそれをわざとぶつかって落とされる、というような陰湿ないじめの場面が頻繁に出てくることに、こういう時代なのかと情けない気持ちになります。私たちの子ども時代には、こんな陰湿ないじめは、相手が相当のことをしないかぎりは生じませんでした。それがただ気に入らないというくらいで、こんないじめに発展していくわけです。

こうした陰湿ないじめに発展してしまうことは許しがたいと私も思いますが、これはやはり個人の問題、いじめる側といじめられる側という当事者同士の問題を越えた、社会的な現象のように思えます。しかし、こうした陰湿ないじめの場合でも、いじめの陰湿さやひどさに目を奪われると被害者、加害者の図式でしか物事がみれなくなります。こうしたいじめにもきっかけがあり、子ども同士では理由がある場合もあります。犯罪に近いいじめには、犯罪として対処する必要がありますが―たとえば画鋲で怪我をさせたのであっても、それは犯罪に近いと私は思います―、やはり人と人との関係で生じている障害として、もう少し子どもも親もじっくりと問題に対処していけるような「ゆとり」が、家族にも学校にもあったらいいなあと思っています。

不登校やこころの問題のプラスの意味

 親にゆとりがない理由のひとつが、不登校になったらどうするの、ということらしいです。でも、不登校になったとしても悲観する必要はありません。それは人間が人生を生きていく上でつきあたる壁のひとつにすぎないからです。

人間は長く生きていく間に何度も人生の壁につきあたり、それを通して自らを変革発展させ成長していきます。発達途上にある子どもは、壁と意識しない場合も多々ありますが、何度もそうした壁に突き当たりながら、その困難を通して前に自分よりも少し大きく少し豊かにメタモルフォーゼする。それが成長です。不登校やこころの問題は、この「メタモルフォーゼ」がうまくいかなくてつまずいた状態なのです。大きな壁につきあたれば、すぐには乗り越えられません。ですがそれが大いなる成長につながるのです。もしつまずきがなければ、成長もない。そうやって考えれば、トラブルや挫折、逆境をもっとプラスに評価してもいいのではないでしょうか。

挫折すれば人間落ち込むし、一時は何もしたくない気持ちになるかもしれないし、学校に行きたくない気持ちになるかもしれない。学校に行くことは人生において大切なことだけれども、だからと言って今人生につまずいて停滞していることが悪いということではありません。重要なのは、こうした挫折や停滞を通して何を獲得するのかということです。


最近の親は挫折やつまずきを取り除こうとする

今の親御さんは、挫折やつまずきを通して「子どもが成長していくのを支える、手伝う」という視点が乏しくて、挫折やつまずきを悪いことと考えているかのように、挫折やつまずきを取り除こうとしている。だから子どもが成長の機会を逃してしまうのです。

不登校を恐れてしている行為が、かえって不登校になることよりもまずいことをしている。こうした認識を親御さんは持っていただきたいと思います。子どもに何か問題が生じたら、問題をなしにすることを考えるのではなくて、何が問題なのか、子どもの成長にとって今何をなすことが必要なのか、それをじっくりと腰を据えて考えてみてください。こうした関わりが、後の子どもの成長、自分の成長につながるのだと思います。

不登校の子どもたち

「でも、もし不登校になったら、ずっと学校に行けなくて家にとじこもって、社会に出られなくなったらどうするのですか」。こう聞かれることがしばしばあります。でも私は、不登校は一時のつまずきであって、将来社会に出られなくなることは基本的には絶対にないと断言します。ただ、放っておいても何とかなるということではありません。「学校に行かない権利」を主張する人の中には、学校に行かないだけでなんとかなると思っている人々も存在します。「学校に行かない権利」は「学校に行かないことは悪」という考えのアンチテーゼとしては必要な考え方でしょうが、子どもの利益という点では、学校に行かないだけで子どもが救われるわけではない。学校に行けないことの背景に、どんな問題が隠れているのか。子どもが何を困っていて、何を手伝って欲しいと感じているのか。それを見つけて誠実に対応をしつづけることが必要です。


人生は登山に似ている

私は不登校に陥った人生について説明するときに、登山を例に挙げることにしています。みんなはよく整備された登山道で山頂に登ろうとしている。何かがきっかけで、その整備された登山道を登りたくなくなってしまった人が不登校の人です。学校に休むと、他のみんなからはずるいとか、甘えているとか、なんだか学校を休むことが得であるかのようにみんなから思われてうらやましがられることがあるのですけど、私は学校を休むこと決して得ではないと考えています。学校を休んで何が得か、何にも得にはなりません。勉強をやらなかったことは結局あとでその子どもの人生の損失になるし、他の面においても損失は結局その人が負うしかない。うらやましいと思ったら、休んでみればわかります。どれだけ不登校の子どもたちが学校に行けないことで苦しんでいるのか。

登山道の話をしましたが、皆で登る整備された道の方が楽しいし、楽に決まっています。でも他の道を進むことが悪というわけでは有りません。道なき道を一人で孤独に進むことを、あえて勧めるまではいたしません。苦しい道のりだとわかっているからです。でも、それをし始めてしまった子どもたちには、私は心の中でがんばってねと激励の拍手を送りたいと思います。

みんなと同じ道を登らないことを決めた時点では、疲れちゃったとか、この道にへびがいそうだから怖いから行かない、とか、見方によってはわがままだと言えるような理由があるのかもしれません。でも結局違う道のりを行くほうが疲れるし、へびにもたくさん出会うことになるのです。そして整備された道のりを楽に行く子どもたちよりも、足腰が鍛えられて、たくましく成長していきます。晴れて山頂にたどり着いたときには、この道はえらかったなあ、と子どもはつくづく思います。でも、自分の歩んできた道のりに誇りが持てる。私は、そんな子どもの道行きを見守ってやりたいと思っています。

4.しつけについて

 次には「しつけ」についてです。最近は少年たちの事件がたくさん引き起こされて、あるいは学級崩壊の事実を引き合いに出されて、「今の親には規範意識が欠けている」「しつけが出来ていない」と言われてしまいます。そういう一面もないではありません。でもこの言葉を額面どおり受け止めてまじめに子育てをされる方は、必ず子育てがゆがんでいきます。「児童虐待」という事態に発展することもある。しつけをする上で気をつけたいことについて、こころの問題を扱う立場からお話したいと思います。

しつけは社会からの要請

しつけといいますと、「社会生活上、してはいけないことを教え込むこと」とか「子ども自身が自立できるように生活について教え込むこと」とか、大人から子どもに一方的に教え込むという意味があると思います。これについては子どもの側の意見によってルールが変わることはありません。たとえば、トイレをトイレではしたくない、この畳の上でしたいといくら子どもが主張しても、子どもがそんなに言うんだから子どもの気持ちも尊重するか、いう具合にはならないし、してはいけません。良いも悪いもない、ともかく社会で決められていることを子どもが覚えてもらわないと、その子ども自身もまわりも困る、というのがしつけの本質でしょう。


日本で大切にされるルール

しつけというのは文化に規定されていますから、住んでいる場所によって強調されるところが違ってきます。今の日本では、人に迷惑をかけてはいけないとか、人に暴力を使ってはいけない、時間に遅れてはいけないとか、が強調されています。これらのことは文化が違えばあまりとやかくは言われないたぐいのものもあります。

しつけのプロセスが性格になる

しつけについてはたいていの親は子どもにちゃんと教えようとしています。たとえば私も、我慢できるようになって欲しかったので、欲しいと思うものを何でもは与えないようにしたいと心がけました。これがすごく大変なことです。私の子ども時代と違って、今は豊かになって親にも金銭的にゆとりがある、そしておもちゃ自体も手軽に手に入るような社会のシステムになっている。たとえば買い物に出たときのガチャポン。スーパーの入り口に「買ってください」とばかりに機械がおいてある。テレビのコマーシャルの影響もある。初めに社会の問題も存在していることをお話しましたが、私たちの時代に我慢するということはそれほど苦もないことだった。ところが今の子どもたちは我慢するということが出来ない環境におかれています。親も子どもを我慢させようとすると、ものすごいエネルギーが必要となる。買った方が楽なんです。

私が子育てで大きな挫折を感じたのは第一反抗期でした。買い物に行った時に、目の前にあるあるおもちゃやお菓子を見ると欲しがってやんちゃを言って手がつけられない。もちろん私は心理学の勉強もしておりましたし、子どもの心を理解するという点ではトレーニングも積んでいます。子どもを受容するということもわかっているつもりでした。やさしい理想的な母親になりたかったし、なれるはずだったんですが、それは子どもの第一反抗期でもろくも崩れることとなりました。この年齢の子どもには感情的になっているときにはまったく話が通じない。どう説得しても、どう説明してもわかってくれない。「今度ね、今度お誕生日に買ってあげるからね」「お誕生日には、あなたの好きなものを何でも買っていいのよ」「我慢できたらお利口ね」とかなんとか、やさしくなだめてもまったく効き目はありません。カウンセラーの私はすごく無力でした。今となってはこの時期の子どもには論理は通じないのだと理解しておりますが、その時点の私は私のやり方がまずいから子どもに伝わらないのだと思っていましたね。だからすごく母親としての自信を失いました。でもともかく、子どもの要求に負けてはいけない、買ってはいけないと思いました。

そのうちに、私はすごく効果的な方法を見つけました。それは子どものやんちゃに負けないくらいの勢いで怒ることです。子どもは勢いで私に負けます。あるいは力づくでそこから子どもを連れ出すことです。つまり目の前にあるものを欲しがっているのだから、目の前からなくしてしまえばいいわけです。あるいは子どもをそこに放っておいて、先に帰るふりをすることもしました。その頃の私としては「我慢させる」ことを身につけさせるためにはそれしか方法がなかったし、「我慢させる」ことがしつけにもっとも大切なことだと信じていたのです。

そうこうして、買わないことを続けた結果、子どもはいつも物を買ってもらえるわけではないことは社会のルールとして子どもの身についたようでした。ところが、私が考えてもみなかったことまで身についてしまったのです。つまりそれは、怒りまくったり、力づくで物事を対処しようとする私のスタイルが、子どもの身についてしまったのです。ショックでした。

これに気がついたのは、なんと臨床心理士の仕事を始めて10年目くらいのことです。つまり我慢させることで大切なのは、我慢できたかどうかの結果ではなくて、そのプロセスなのです。子どもの衝動や欲求に対処する大人の教え方、プロセスが、子どもの性格となって蓄積されていくのです。このことは心理学の教科書には、書いていないわけではなかったんだけど、あんまりそのことは強調されていなかったのです。大失敗でした。それがわかっていれば、我慢させることもあんなに汲々としなくても、もっとおおらかにやったほうが良かったのですね。

効果が現れるためには時間がかかる

それと自分が子どもを育ててもうひとつわかったことは、親がどんなにうまく教えても、すぐに効果が出ないということでした。私はこんな簡単なことすらわからなくて、子どもがすぐに言うことを聞いてくれないのは自分のやり方がまずいせいだと思っていました。一人目の子どものときには自己嫌悪に陥っていて、子どものせいで理想的な母親にさせてくれないという怒りの気持ちが湧いてしまうこともありました。仕事をしているおかげですが、こうした気持ちは私だけのものではなくて、本当にたくさんの母親が同じように自己嫌悪に苦しんでいることを知りました。

自分の子育てと、そして数多くの親子の関係とを見つめてきた結果、長い時間がかかりましたが、子どもがルールを自分の中に定着させてくれるためには時間と子どもなりの試行錯誤が必要なことがわかりました。また、それが定着されるまでの時間は、その子ども子どもによって違うこともわかりました。たとえば手を出さずに言葉で自分の気持ちを伝えられるようになるまでの時間、忘れ物がなくなるまでの時間、身の回りに気がついて身辺を整理することが出来るようになるまでの時間。これが出来るようになることは「成長」とも言えますが、この成長に必要な時間は実に子ども子どもによって違います。でも、効果がすぐに出なくても、大人が気長に言いつづければ、いつのまにか子どもにそれが出来るようになるものです。

子どもの失敗が親のせいにされるために、親が子どもの失敗を認められなくなる

 ところがしつけが強調されるようになったからというもの、子どもの成長が標準からはみでていると、親のしつけが問われるようになりました。だから、親が子どもの試行錯誤や失敗を鷹揚に見ておれなくなっています。

たとえば、幼稚園年齢で喧嘩になって感情的になって興奮して手が出るというのは当たり前のことなのですが、その興奮の度合いが激しいと、「どうもお宅のお子さんはキレやすいようです」と保母さんが言う。そんな風にいわれると、親は心配になります。どうしよう、思春期になったら、私の子どもは新聞に出てくるようにキレどもになってしまうのかしら。その心配はたいていの場合、子どもを強く制御する方向に働きます。あまりに友達との衝突が多かったら、友達とは遊ばせないようしようとか、手を出すたびに子どもを叱りつけるとか。保母のほうも、その子どもがトラブルを起こせば気持ちも聞かずに、「またキレた」とばかりに対応を始めます。

失敗を許してもらえない弊害

 こうしたことが、子どもたちに悪い影響を与えていることを大人は気がつくべきです。それと、親は教師や保母や、時には臨床心理士もですが、アドバイスを受けたときに括弧つきで受け止めて自分でそのことをよく咀嚼して考えて欲しいと思います。また教師や保母など集団を扱う側の人が言う言葉は集団を扱う側の論理で見ているのであって、自分の子どもを教師と同じ視点で物を見ては子どもを育てるという本質を誤ることを心得てください。集団を扱う側の人の論理そのままを家庭に当てはめるととんでもないことになります。教師の子どもに不登校が多いのも、そのせいではないかと私は思います。人に手を出しては行けないとか、忘れ物はいけないとか、身の回りの整理とか、学校で教えていることはとても大切なことで正しいけど、正しいことを押し付けられて子どもらしく生活できなかった子どもたちは本当に不幸です。家庭では家庭の考え方で、自分の子どもの性格や気質や考え方に合わせて、親しかできないようなやり方で大切だと思うことを教え育んでいただきたいと思います。

内的な規範づくりのために必要な、試行錯誤と失敗

 神戸連続殺傷事件のときにかなり話題になりましたが、今の子どもたちに規範意識が足りないのではないかについても一言言わせてください。子どもは失敗や試行錯誤を通して、自分の中にルールを定着させていくのに、今の時代はちゃんと出来る子どもを求めすぎて、失敗や試行錯誤の体験をさせないことがものすごく、非常にまずいと私は思います。体験のないところで定着したルールは、すぐにこわれます。これが思春期に問題を起こす子達の背景にある問題です。規範には、外的な規範と、内的規範があります。外的な規範というのは、外側から示す、たとえば親や社会が示すルールのことを示していて、これが必要であることは言うまでもないことです。内的な規範は子ども心の内部に築かれたルールという意味ですが、この内的な規範をちゃんと築くにはさきほどから言い続けておりますように、失敗や試行錯誤と長い長い気の長い時間が必要だということをわかっていただければと思います。

5.まとめ

さて、ここまでの話で少しは心の問題について発想の転換をしていただけたのかもしれません。今日の話の要点は、マスコミやまわりの方の無責任な言葉に翻弄されるのではなくて、本当に大切なことを見落とさずに子どもと関わって欲しいと言うことです。そのために巷で言われていて、親を惑わすような言葉について見なおしてみました。こころの問題について語られるときに「愛情不足」という言葉もよく出てきます。これも考え方によっては悪しき考え方で、愛情などというものは数字で測れるものではないので「不足している」と言われてしまうとすべての親が「ああそうだった」と感じてしまうのですね。どれだけの親が、この言葉に縛られて子どもの本質を見れずにいるか。まったく違う問題なのに、あるいは与えすぎていることがまずいケースもあるのに、巷で言われている「愛情不足」の言葉に縛られて子どもをちゃんと見もせずに「愛情が不足していたんだ」と勝手に決めつめて与え始める。大切なのは、子どもとよく話し合う、あるいは子どもの姿をよく見つめることだと思います。今日の話が、子どもの姿を見つめる上で少しでも役に立つような話になっていたらいいなと思います。ご静聴ありがとうございました。